牧野記念庭園に行ってきました。

牧野記念庭園 入り口

以前から行こう行こうと思ってなかなか行けていなかった「牧野記念庭園」に行ってきました。こちらは日本植物学の父、「牧野富太郎」が上京してから亡くなるまで約30年間ほど住んでいた跡地だそうです。
高知の生まれらしいですが、上京してきてからはずっと東京に住んでたんですね。 今回はそんな牧野記念庭園へ行った時のレポートをまとめてみました。

巨大な松の木がお出迎え

牧野記念庭園 巨大な松の木

牧野記念庭園は、閑静な住宅街みたいなところに、ひっそりとありました。 正直、一回通り過ぎてしまいました。思ったよりも入り口が小さかったように思います。中に入ると結構ひろいのですが・・・

入り口には枇杷(びわ)の実がなっています。 おおー、庭園っぽいと思いつつ中へはいると受付のような建物があり、 そこに松ぼっくりが沢山ならべてあります。 「庭園のまつぼっくり比べ」とあります。字の感じからして子供たちが集めたのでしょうか??(違ったらすみません・・・) そして、その中にひときわ大きな松ぼっくりが・・・・・! 大きい~と思わず自分の手と比べてみました。 自分の手のひらよりも大きいです。 テレビで大きな松ぼっくりを見た事がありましたが、実際目の前でこの大きさの松ぼっくりを見たのは初めてかもしれません。

ふと隣をみると、立派な松の木が立っています。 「だいおうまつ」とあります。 この木の松ぼっくり、なんでしょうねきっと。こんなに立派で大きい松の木をみたのも ひょっとしたら初めてかもしれません。木の幹の感じも立派で、しかも奇麗です。 樹齢何年くらいなのでしょうか。牧野富太郎がここにいる時からあるとしたら、彼もこの松を見ていたのでしょうか?? そして同じように松ぼっくりの大きさに感心していたのかもしれませんね。

スエコザサ

牧野記念庭園 スエコザサ(寿衛子笹)

富太郎の石像のそばには、奥さんの名前をつけたといわれる植物「スエコザサ」が生えています。植物に自分の名前をつけてもらえるなんて素敵だと思いますが、常にお金がなかった富太郎をささえた奥さんは、結構苦労されたと聞いています。富太郎を裏口から逃がして自分が借金取りの相手をしたりしていただとか・・・( うーん・・・(-_-;))

牧野富太郎の書斎

牧野富太郎の書斎

富太郎が実際に書斎として使っていたとされる部屋も公開されています。 これまた結構小さい。以前山口県にある吉田松陰が数名の弟子と一緒に勉強したとされる「松下村塾」を見た事がありますが、そちらも小さな建物でした。歴史に残る偉業を成した人達が使った部屋って、案外小さなものなのですね。当時の庭園のジオラマもあり、富太郎が住んでいた頃の様子が分かるようになっています。また富太郎の実寸代?写真もありました。こんな表情で笑うんですね。

牧野富太郎の生い立ち

書斎を出て向かいの建物には、牧野富太郎の年表や、実際使っていた道具、出版した図譜などが展示されています。 ここでちょっと富太郎の生い立ちについてざっくりまとめてみました。 (以下は、以前本で読んだ内容を思い出しながら書いたものです。ひょっとしたら一部史実と違う部分があるかもしれません・・・)

江戸から→明治へ、激変の時代を過ごした幼少期

牧野富太郎は江戸時代の後期に生まれ、戊辰戦争を経て明治時代が始まる激動の時代に幼少期を過ごします。江戸幕府を打ち倒し、明治時代になれば自分たちの生活がよくなると信じていた当時の市民達は、体制が変わっても結局なにも変わらないことに不満をつのらせ、日本各地で農民一揆が起きたと聞いています。そして一揆を制圧した役人たちは、河原などで首謀者たちを斬首刑に処し、その光景を見ていた幼い富太郎の脳裏には、役人たちの理不尽な力による抑圧が鮮明に刻まれました。

最終学歴は小学校卒

酒屋の跡取りに生まれた富太郎は、幼いころから学問にも感心を示し優秀だったそうです。寺子屋みたいな所で学んだのち、小学校に進学するのですが、入った小学校で教わる事は富太郎にはすでに物足りなかったそうです。また当時はまだ士農工商の身分制度の価値観が残っており、農民の出の富太郎は、武士の出の子供たちに向かって挨拶をしなければならなかったらしく、そのようなことから次第に学校という場所に興味がなくなり、独学で自分の興味があることを勉強していくようになったそうです。

大学で助手として植物研究に没頭

富太郎は植物学を追求するため、 酒屋の経営を番頭に託し上京します。 大学の教授に教室の出入りを許され、教室内の資料や文献を読みながら、以前から作りたいと思っていた日本植物志図篇を自費で作成しはじめますが、大学内の権威や序列を理解しない富太郎はまわりとの摩擦を生み、図篇は廃刊に追い込まれます。 そして植物学において多大な実績を残したのにも関わらず、立場はずっと助手だったそうです。当時、大学で教授になれるのは大卒者だけで、小学校卒の富太郎は教授にはなれないという事でした。

その後、大学を追い出されたり、生家である酒屋の経営も立ち行かなくなり資金面が苦しくなったりします。大学に戻れることになったり、でもやっぱり圧力がかかったりなど、常に権力や資金繰りと戦いながらも最終的には史に名を残す偉大な学者として生涯をまっとうしたというのが牧野富太郎です。うーん・・・・・・(-_-;)。

当時使っていた採集道具

さて、話を庭園に戻します。

まず展示室に入って一番手前には、富太郎が使っていた植物の採集道具が展示されていました。奥に見える入れ物のようなものは、胴乱と呼ばれるものらしく、富太郎はこれをもって採集にでかけ、採った植物をこの中にいれて持ち帰ったみたいです。けっこう重そう・・・・・。

手前には、これは採集した植物をいれて保存するのでしょうか??標本ビンとかかれた瓶、虫眼鏡や植物を刈るためっぽいナイフのようなもの等が置かれています。 一番奥には富太郎が最初に買ったとされる顕微鏡まで。明治14(1881)とあります。僕が生まれたのが1980年なので、約100年まえ!こんなに奇麗に残っているんですね~。

植物標本の数はどれくらい??

富太郎 植物標本

机の引き出しをあけると、押し花のようにされた植物の標本が出てきました。 これも実際に富太郎が採集した植物なのでしょうか?? こんなに残るものなんですね・・・。 標本番号「164517」とあります。他の引き出しの標本には「293886」と。 一体いくつの植物を標本にしたのでしょうか??

日本植物志図篇

日本植物志図篇

となりのガラスケースには先の話にもでてきた「日本植物志図篇」が展示されています。第一集の表紙は桜ですね。第五集はひょっとしてドウダンツツジでしょうか?? ふたつともウチのちかくにある植物です。明治も今もそんなにかわりませんね。

そして表紙の文字が当時は逆なんですね。右から読むみたいです。 表紙のデザインも富太郎のものなのでしょうか?? イラストもタイプフェイスもとても素敵です。

日本植物志図篇

日本植物志図篇

さらにそのとなりのケースには、「植物研究雑誌」とあります。 こちらはいつ頃出した本なんでしょう?? こちらは本の表紙みたいなものはなく、中表紙から数ページ展示されています。 この中表紙のイラストや文字、構成すべて一人でやるのでしょうか? 本の装丁は?さすがに全部ひとりという事はないでしょうが、どのように作られたのか気になります。

牧野富太郎のボタニカルアート

牧野富太郎のボタニカルアート

富太郎が描いた植物の画も展示されています。 「ひがんばな」と書いてあります、とても細密ですね。 これは筆で描くのでしょうか? またどれくらいの時間で描きあげるのでしょう?? 塗りだけに頼らず、線の強弱を使って面を表現しています。 こういう描き方って誰に習うのでしょうか。いろんな本を見て独学で覚えていくんですかね。描くときの集中力が凄そう・・・・・・・。

牧野富太郎のボタニカルアート

牧野富太郎の凄さは、学者としてだけでなく画家としても優秀だったという事でしょう。学者の人は皆、図版や画を多少なりとも描くのでしょうが、ここまで正確に描くのはなかなかないと思います。普通分業ですし、実際、大航海時代のジェセフ・バンクスら調査団も、植物画に関しては船に同乗させたシドニー・パーキンソンなどの画家に描かせているようです。

ひとりで両方やってしまう富太郎・・・・・・。 やはり天才か・・・・。

ひと通り見終わったあと、隣の部屋に展示されている、現代ボタニカルアーティストの方々の作品を見て見学は終了しました。どれもすばらしかったです。

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